2009 年 8 月 7 日

麦圃行雲

今日の八ヶ岳南麓のお天気は曇り。ときどき雲の厚さが変わって、雨が降ったりふんわりした光を感じたりもします。
梅雨が長引いたせいか、野菜の収穫はなかなか例年通りにいかないようですね。周辺の農家の方から、よくお日様を待ち望む切実な声が聞かれます。明日には雲の上のお日様と逢えるかな?

アンキさんが亡くなったのは昭和21年年9月9日です。その年の気候は定かではありませんが、亡くなるまでの梅雨から夏、アンキさんは湿気にだいぶ苦しんだそうです。
戦後間もない焼けあとのバラックで、カボチャの実りを楽しみにしながらも餓死したアンキさん。このエピソードには痛切な苦みを感じますが、アンキさんの生き様は決して貧しいだけで語られるものではなかったようです。

遺作集『鬼才の画人 谷中安規』 (アポロン社 刊 1972 収録作品は、遺作版木から摺られた木版画5点、コロタイプ多色刷作品30点をふくむ130点)の巻末には、料治熊太によるアンキさんにまつわるエピソードが愛情深い文章でつづられています。
その文章のなかから少し抜粋して紹介します・・・。

『鬼才の画人 谷中安規』アポロン社 外函

外函 題字は棟方志功です

彼は心からの貧乏人ではなく、貧乏を楽しんでいる王者のごとき貧乏人だというように思われて来た。平凡人の私などとても真似のできないおおらかで奔放なところがあった。
たとえば、こんなことがあった。丸山停留所の目と鼻の先きに天神湯という銭湯があった。彼は、風呂は嫌いで滅多にはいらぬが、たまにそこへ出かけることも あった。ところが、少し懐中に銭のある時など手拭いをブラさげて家を出ることは出るが、空にフワフワ雲でも泛んでいるのを見ると、急に原っぱで、それが見 たくなる。円山町の停留所までやって来て、通りかかった円タクを呼びとめる。
「おい、どこでもいい、麦畑の見える広々とした原っぱへやってく れ」それを聞いて、たいていの運転手は、「冗談じァない。忙しいンだ」といって行きすぎる。風体のあやしい、見るからに精神異常者めいた男が、そんなこと をいえば、たいていキ印と思うにきまっている。ことわるのも無理はない。

『鬼才の画人 谷中安規』アポロン社 内函

内函 口絵には佐藤春夫が油絵で描いた谷中安規像があります

そこで、後になって、彼は新手を考え、一円札をヒラヒラ見せながら、呼 びとめることにした。銭を先にわたし、バタンとドアをしめ、乗りこんでから「板橋へんへやってくれ」というのである。そして所定の板橋へやってくると「何 番地ですか」と運転手が聞く時になって「どこでもいい。そこらへんの麦畑のところへ降ろしてくれ」というのであった。
彼はその話をした時「私もこれでナカナカ知恵者でしょう」と言って、ニコニコ笑っていた。
そんな時の彼は、利口なのか、バカなのか、見当のつかない不思議な男にみえた。
「麦圃行雲」とでもいうのか、郊外の風景をしばし楽しむ間、彼は自動車を待たせ、十分くらいそこを散歩し、煙草をふかし、もとの丸山町に引き返し、歌心を心に湧かせながら、天神湯へはいるのだった。

(料治熊太「鬼才の画人 谷中安規  〈谷中安規とその奇行〉」より)

『鬼才の画人 谷中安規』アポロン社 本体

本体 内田百閒による序文が寄せられています

読みながら、アンキさんが、フィリア美術館の前の原っぱを眺めに来てくれないかしら・・・などと、つい夢想してしまいます。
麦畑はないけれど、牧草や雑木の緑に囲まれたテラスのベンチにお招きして、アンキさんの好物のコーヒーをたっぷり煎れてさしあげたいです。
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料治熊太(1899-1982)岡山県に生まれる。『南京新唱』をとおして会津八一に傾倒する。博文館『太陽』の編集を経て、骨董及び版画研究を行う。『白と黒』「版芸術」などの同人版画雑誌を発行し、昭和前期における版画の隆盛に寄与した。

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