展示の解説
宍戸清孝 写真展 21世紀への帰還 -二つの祖国に架けた橋-
第二次世界大戦下のアメリカで、日系人たちがたどった軌跡を、
宍戸清孝が30年にわたって取材した証言と写真でつづる展覧会です。
真珠湾攻撃
1941年12月7日日曜日(米国ハワイ時間 日本時間では12月8日)、日本軍は、ハワイオアフ島真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊と基地を攻撃し、第二次世界大戦はヨーロッパからアジアを含む文字通り世界規模の戦争へと拡大しました。
第二次世界大戦下のアメリカの日系人
1942年2月19日、ルーズベルト大統領は、「大統領令 9066号(Executive Order 9066 )」に署名を行い、「軍が必要がある場合(国防上)強制的に『外国人』を隔離する」ことを承認します。
こうして米国本土の日系人の九割約12万人が立ち退きを命ぜられ、裁判や審議をされないまま、全米に11か所に設けられた「戦時転住所(Relocation Center)」に送られます。
そこは鉄条網が張り巡らされ、銃を持った監視者のいる「強制収容所」と呼ぶべきものであり、砂漠地帯や人里から離れた荒地に作られていました。
日系二世米兵
しかし、自分たちを拒絶したアメリカの兵士として、一世の両親らの名誉回復のためにも、その囲いの中から自ら志願した若者たちがいました。日系二世部隊442は、ヨーロッパ等の過酷な戦線で「Go For Broke」(当たって砕けろ)の合い言葉のもと、米兵として勇敢に戦い抜き、連合軍の中でも高い名誉と尊敬を勝ち得ていったのです。フランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘や、ドイツ軍に包囲されたテキサス部隊の救出、ドイツ・ダッハウ強制収容所の解放を行ったのも彼らでした。
また、同じ日系二世兵でも戦闘兵ではなく、情報部という分野で活躍した人も数多くいました。彼らは日米双方の言葉に通じ、アメリカ軍の各部隊に広く配属ましたが、多くは南太平洋と東南アジア、中国に派遣され、捕虜の尋問などの任務で日本兵と対峙しなければなりませんでした。MIS(ミリタリー・インテリジェンス・サービス)という、日系二世で編成された隊員は約6000人。彼らの多くは、暗号解読等の任務の特殊性や守秘義務に忠実で、戦後も固く口を閉ざしていたそうです。
宍戸清孝とある日系米兵との出会い
1980年のハワイで、ある老人と出会ったことをきっかけに、宍戸は第二次世界大戦下のアメリカの日系人たちの存在を知ります。その後30年にわたって、高齢となった日系人たちと丹念に語らいを重ね、ハワイをはじめアメリカ本国、442部隊が戦ったフランスの戦地跡などを取材し、写真におさめてきました。その結晶が『21世紀への帰還』シリーズです。
この「風化しつつある戦争の記憶を甦らせ、次代へ伝えるべき普遍性を求めたドキュメンタリーフォト」は、第29回伊奈信男賞受賞しました。
(伊奈信男賞は「ニコンサロンにおいて1年間に開催された全作品展の中から最も優れた作品」に贈られる。伊奈信男は、ゲーテ文学の翻訳を手がけたこと等で知られる。日本写真界最初の評論家。1898 - 1978年)
戦後の米国日系人のあゆみ
戦後、収容所から解放された日系人たちは、再びゼロから出発しなければならず、特に一世たちは苦労して築き上げたものを失った虚脱感から抜け出せない人が多かったそうです。収容所に入る際に失った財産への補償法が1948年に成立しましたが、ほとんどの人が戦中から続いた混乱の中で複雑な申請の書類などを整えられず、補償金を受けとることができませんでした。
再び生活を取り戻した人々は、戦争中のことについて沈黙し、自分の子供にもその事実を語らなかったそうです。しかし1960年代に、マーティン・ルーサー・キング牧師を先頭にアフリカ系の人々がおこした公民権運動が刺激となって、マイノリティたちの権利を勝ちとる気運が高まります。1970年に全米日系市民協会の損害賠償に向けての活動がスタートし、ゆっくりとした歩みでしたが、1980年にカーター大統領のもとで戦時に収容された市民に関する調査委員会が成立し、日系人の強制収容を命じた「大統領令 9066号(Executive Order 9066 )」が布かれた日である2月19日を「Day of Remembrance(「想起の日」あるいは「忘れてはならない日」などと訳される)」と定めたことによって、民主主義国アメリカで行われた戦争中の不正義を明らかにするべく、日系人たちはようやく苦しい経験を語りはじめました。『否定された個人の正義』として報告書がつくられ、1987年、合衆国憲法発布200年の記念すべき年に損害賠償法は連邦議会を通過、1988年にレーガン大統領によって『市民自由法(日系アメリカ人補償法)』の署名がなされました。こうして彼らは大統領からの謝罪文と2万ドルの賠償金を手にすることになったのでした。
2001年9月11日の同時多発テロ事件の直後、アラブ系アメリカ人やイスラム教徒に対する圧力に対して、このとき運輸長官であったノーマン・ミネタは、ワイオミング州ハートマウンテン収容所における自らの鉄柵生活を語り、テロは憎むべきだが、人種という点から特定のマイノリティを隔離することはもちろん、敵視すべきでないと明言しました。
展示のねらい
敵国となった二つの国の間で揺れたアメリカの日系人の人生。宍戸清孝のドキュメンタリーフォトを通して、様々な立場の個々の記憶をたどりながら過去の出来事を立体的に知ることは、現代に生きる自分自身を見据えることにつながるでしょう。
歴史を省みるひとときをもち、未来の平和をしっかりとつむいでいけますよう願っています。 |